ご法事についてご案内する中で、ふと、こんなことを考えることがあります。

「法事のお勤めの流れは、まるで時間旅行のようだ」と。

正圓寺の法事では、おおよそ次のような次第でお勤めをいたします。

【式次第の一例】

① 伽陀(お勤めの導入となる偈文)

② 表白(法要の趣旨を仏前で申し上げる)

③ 仏説無量寿経(お釈迦さまの言葉を現代に伝えるお経)

④ 休憩

⑤ 正信偈(親鸞聖人が著された偈文)

⑥ 御文(蓮如上人のお手紙)

⑦ 法話(現代の僧侶によるお話)

この流れ、実は単なる儀式の順番ではありません。

よく見ると、成立した時代が古いものから新しいものへと、歴史を旅するように進んでいくことにお気づきでしょうか。
『仏説無量寿経』。
これは今から約2500年前、インドのお釈迦さまが説かれた教えが、中国で翻訳されたものです。私たちの旅は、仏教の源流から始まります。

次に全員でお唱えする
『正信偈』。
時代はぐっと下り、日本の鎌倉時代。親鸞聖人が著されたものです。
この『正信偈』を読むたびに私が印象的に感じる点としては、阿弥陀さまの救いという教えの内容だけでなく、その教えがお釈迦さまからインド、中国、日本の七人の高僧(七高僧)を経て、「この私にまで届いた」という、教えの壮大な旅路そのものへの深い感動がうたわれている点です。親鸞聖人ご自身が、教えの歴史を深く受け止めておられたことがわかります。

そして、室町時代に蓮如上人が、より多くの人々へ親鸞聖人の教えを分かりやすく伝えようと書かれたお手紙が
『御文(おふみ)』です。

時代はさらに現代へと近づいてきます。「今」へと続く、いのちのバトン お釈迦さまの言葉(お経)、親鸞聖人の感動(正信偈)、蓮如上人の手紙(御文)。悠久の時を経て受け継がれてきた教えのバトンは、最後に現代を生きる僧侶の「法話」へと繋がります。

なぜ、この、「法事」という儀式は現代の僧侶の話で終わるのでしょうか。
それは、この教えの旅が、決して過去の物語で完結するものではないからです。

親鸞聖人が、自分へと至る教えの歴史を何よりも大切にされたように、
この流れは「さあ、次はあなたの番ですよ」と、私たちに問いかけているのではないでしょうか。
法事という場で、仏さまの教えの歴史に触れた私たちが、その教えを自らの生活の中に見出し、聞いていく。
そのための助走期間、ウォーミングアップこそが、法話の時間なのかもしれません。

法事は終わりではなく、日常生活の中で仏さまの声を聞いていく「聞法(もんぽう)」の新たな始まりなのです。

故人を通して「私」に出会う 法事は、亡き大切な方を偲ぶ、かけがえのない時間です。
そして同時に、その故人との血縁、あるいは法縁(仏法によって繋がれたご縁)をきっかけとして、仏教二千五百年の歴史、さらには人類の悠久の歴史という大きな流れの中に、故人と、そしてこの「私」を位置づけてみる機会でもあります。
遠い過去から無数のいのちの繋がりを受け継ぎ、今、ここに生かされている私。

「私は、なぜ生きているのだろうか」

その根源的な問いと向き合い、自分自身のいのちの不思議と尊さに気づかせていただく。
それこそが、法事の最も大切な意義ではないでしょうか。
次に法事にお参りされる際は、ぜひそんな「タイムトラベル」をするような気持ちで、お勤めに身を置いてみてください。
故人を偲ぶ心が、時代を超えた壮大な歴史と、そしてあなた自身の「今」を生きる意味へと、深く繋がっていくのを感じられるかもしれません。