ご法事などで耳にするお経について、「いっそ現代の日本語で読んだ方が、有り難みがわかるのに…」と思ったことはありませんか?このコラムでは、その疑問を入り口に、お経が“わからない言葉”で読み継がれてきた大切な意味を、仏さまからの「呼びかけ」という視点から一緒に考えていきます。

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お経って、どうして意味のわからない言葉のままなの?

ご法事やお寺での行事の際、お経を聞きながら、ふとこんな風に思ったことはありませんか?

「このお経、一体どんな意味なんだろう…?」「いっそのこと、みんながわかるように現代の日本語で読んだ方が、有り難みがわかるんじゃないだろうか?」

そう思われるのも、もっともなことだと思います。今回は、この疑問について、考えてみたいと思います。

◆ どの国でも話されたことのない「言葉」

まず、私たちがお葬式や法事で耳にするお経の言葉ですが、実は外国語ではありません。中国語でも日本語でもありません。遥か昔、インドから中国へ伝わった仏教の経典(サンスクリット語)が、中国で漢字に翻訳されました。その漢字で書かれたお経を、私たちは日本語の音読みでお勤めしているのです。

言わば「中国語の文章に、日本語の音を当てはめたもの」。これは、これまで歴史上どの国の人も、日常会話として話したことのない、仏さまの教えを伝えるためだけの特別な「言葉」なのです。

◆ お経は「教え」であると同時に、仏さまからの「呼びかけ」

ではなぜ、わざわざそんな特別な言葉で読み続けるのでしょうか。

それは、お経が単なる「知識を伝える文章」ではなく、阿弥陀如来という仏さまから、今を生きる私たち一人ひとりに向けられた、「呼びかけ」だからです。

その中心にあるのは、「どんな者も、必ず救いとる」という阿弥陀さまの誓いと、その仏さまがいらっしゃる清らかな世界(お浄土)の様子です。そして、お経を読み上げる僧侶は、いわば仏さまの代役として、その呼びかけの声を響かせているにすぎません。

◆ わからないからこそ、耳を澄ます

ここで、少し想像してみてください。

もし、今は亡き大切な人が、あなたに何かを伝えようと呼びかけてくれたとします。その声が聞こえてきたとき、私たちはまずどうするでしょうか。「意味がわからないから」と、聞くのをやめてしまうでしょうか。

きっと、そうではないはずです。たとえ言葉の意味がすぐにはわからなくても、その懐かしい声の響きに、ただじっと耳を澄ませ、全身でその声を受け止めようとするのではないでしょうか。

あるいは、飼い主が優しく語りかけるとき、犬が首をかしげてじっと耳を傾ける姿を思い浮かべてみてください。犬は言葉の意味を理解しているわけではありません。しかし、自分に向けられた大切な存在からの呼びかけであることを感じ取り、一心に聞こうとしています。

不思議なもので、私たちは言葉が通じるはずの相手(例えば家族)と生前に交わす言葉は、意味がわかるがゆえに、かえって聞き流してしまったり、右から左へと頭を素通りさせてしまいがちです。言葉を交わせない関係になって初めて、「もっと、あの人の声が聞きたかった」と、その声そのものを渇望する。私たちは、そういう存在なのかもしれません。

お経も同じです。「意味がわからない言葉」だからこそ、私たちは意味を頭で理解しようとする前に、まずその「呼びかけ」そのものに、心を静めて耳を傾ける姿勢になるのかもしれません。

◆ 日常に響いている「呼びかけ」に気づく

この仏さまからの呼びかけは、ご法事という特別な場でだけ響いているのではありません。本当は、私たちの慌ただしい毎日の中に、常に届き続けています。ただ、私たちが日々の様々な音にかき消されて、それに気づかずにいるだけなのです。

ご法事の場で、おごそかにお経が響く空間に身を置くのは、この日常に満ちている「仏さまからの呼びかけ」に、改めて気づかせていただく、大切なご縁と言えるでしょう。

ここまで読んでくださった方の中には、「では、その呼びかけには、一体何が書かれているのだろう?」と、知りたくなった方もいらっしゃるかもしれません。そのお気持ちは、仏さまの教えに触れる、とても尊い入り口です。ぜひ、次の機会には、その内容についても一緒に学んでまいりましょう。

大切なのは、頭で理解する「知識」として知るだけでなく、この私に向けられた呼びかけであったと、心でうなずける「実感」として受け止めていくことです。

まずは、お経が響く場に身を置いたとき、少しだけ耳を澄ませてみてください。そこには、あなたを案じ、呼びかけ続けている、温かな声が響いているはずです。