仏事のあれこれ「浄土真宗では供養しない」って本当?
- 「浄土真宗は供養をしない」という言葉の意味について真宗大谷派の寺院の目線で解説します。
- 「故人を仏にする」のではなく、「故人が仏であったと知る」のが浄土真宗の仏事です。
- 法事やお参りへの不安が、安心と感謝に変わるきっかけとなれば幸いです。
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「浄土真宗は、先祖供養をしないらしい」
「法事はあるけれど、追善供養はしないと聞いた」
皆さんは、こんな言葉を耳にしたことはありませんか?
大切な方を亡くされた方にとっては、少し不安になる言葉かもしれません。
「何もしなくて、故人は大丈夫なのだろうか」
「じゃあ何のために法事をするんだろうか…」
と感じる方もいらっしゃるでしょう。
この問いに対する答えは、
「半分は本当で、半分は少し違います」となります。
いったいどういうことなのでしょうか。
このコラムでは、「供養」という言葉のイメージを一度ほどきながら、浄土真宗が本当に大切にしている「仏さまとの向き合い方」について、一緒に考えていきたいと思います。
【ステップ1】「供養」のイメージ
【ステップ2】誰しもが仏さまになる ―「往生即成仏」
【ステップ3】「供養」を捉え直してみる
【ステップ4】先生と生徒の譬え話
【ステップ5】法事は「大切な人が仏さまだと」知るための儀式
- 【
結論】浄土真宗の「供養」とは
【ステップ1】「供養」のイメージ
まず、私たちが普段「供養」という言葉から思い浮かべるのは、どのようなことでしょうか。
- 亡くなった方のために、お経をあげてもらう。
- 善い行いをして、その功徳(くどく)を故人に送る。
- 故人が安らかに成仏できるよう、この世から応援する。
多くの場合、そこには「生きている私たちが、亡くなった方のために、何かをしてあげる」という方向性があります。
まるで、川の向こう岸にいる故人に向かって、こちら岸から善いものを投げ届けてあげるようなイメージです。
これを専門的には「追善供養(ついぜんくよう)」と言います。
故人の善行を、私たちが「追って」補う、という意味です。
「供養とは、相手を『仏』とすること」と言うことができるでしょう。
このイメージからすると、浄土真宗の教えは、確かに少し違って見えます。
なぜなら、浄土真宗では、この「追善供養」を行わないからです。では、なぜ行わないのでしょうか。
それは、亡くなった方がどこへ往かれるのか、という点に、大きな特徴があるからです。
【ステップ2】誰しもが仏さまになる ―「往生即成仏」
浄土真宗では、阿弥陀さまという仏さまの教えを拠り所にしています。
阿弥陀さまは、私たちのような、迷いや悩みを抱えたままの人間をこそ、決して見捨てず、必ず救いとるという誓いを立てられた仏さまです。
そして、いのち終えた方は、間を置くことなく、すぐさま阿弥陀さまの待つ清らかな世界(お浄土)に往き生まれ、仏さまとなります。
これを「往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ)」と言います。
大切なのは、これが「私たちの善行」や「遺族の頑張り」によって成し遂げられるのではない、という点です。
「追善供養」を行わないという浄土真宗の特徴はここから生まれています。
すでに「仏さま」になっている方に対して、私たちが「早く仏さまになってください!」と応援する必要があるでしょうか。それは、もうゴールしているマラソン選手に「頑張れ、走れ!」と声をかけるようなものかもしれません。
浄土真宗で「故人を仏さまにしてあげる」ための追善供養を行わないのは冷たいからではありません。
むしろ、故人がすでに仏さまとして安らかでいることを、心から信じているからなのです。
【ステップ3】「供養」を捉え直してみる
「それじゃあ、やっぱり何もしないの?」
「法事やお墓参りは、何のためにあるの?やる必要ないんじゃ?」
ここからが、本当に大切なところです。
さきほど「供養とは、相手を『仏』とすること」と書きました。
この視点から見てみると、これまで見てきた景色が少し違って見えてきます。
- 追善供養としての仏事とは… これから仏さまへの道を歩んでいく故人を「未来の仏さま」として敬い、その道を後押しする営み。
- 浄土真宗の仏事とは… 「故人が私にとっての『仏』と既になっていることを知る」こと、そして「故人に導かれる人生を送れる」ことを喜ぶ仏事。
向かう方向や方法は違えど、どちらも「相手を仏として大切にする」という点では共通しています。
浄土真宗は「供養をしない」のではなく、「仏さまとなった故人と私とが向き合うこと」を大切にしているのです。
【ステップ4】先生と生徒の譬え話
では、浄土真宗が大切にする「仏さまとの向き合い」とは、具体的にどのようなものでしょうか。ここで、ひとつの物語をさせてください。
ある学校に、とても素晴らしい先生が赴任してきました。先生は、どんな生徒のことも見捨てず、いつも優しく、そして時には厳しく、大切なことを教えようと語りかけています。
でも、生徒たちは「あの人は、仕事でやってるだけのただの大人だ」「自分で勉強するから先生なんて必要ない」とそっぽを向いて、耳を貸さなければ、先生の言葉は決して心に届きません。教室にいるのに、先生と生徒の関係は始まらないのです。
ところがある日、生徒の一人が、何かのきっかけで「この人は、私のことを本当に考えてくれる『先生』なんだ」と気づきます。そして、先生の方を向き、その言葉に真剣に耳を傾け始めました。その瞬間、初めて先生の言葉が生徒の心に届き、温かいキャッチボールが始まったのです。
この物語、実は私たちの話です。 仏さまになった故人は、まさに「人生の先生」です。
いのちの尊さ、生きることの不思議さ、そして阿弥陀さまの慈悲の心を、その存在そのもので私たちに伝えようと、いつも働きかけてくださっています。
これを「還相回向(げんそうえこう)」と言い、仏さまとなった方が、今度は私たちを導くために、呼びかけてくださる働きのことです。
しかし、私たちが故人の死をただ悲しんだり、忘れてしまったりしていては、その声は聞こえてきません。
私たちが、故人を「私の人生の先生(仏さま)だったんだ」と心から気づき、その声に耳を傾ける。
その時に初めて、私たちは、自分を生かすための「仏縁」という願いが自分に向けられていたことに気がつくのです。
法事や月参り、お墓やお仏壇の前に座る時間。
それは、私たちが故人を「仏さま」として認識し直し、その声に静かに耳を傾けるための、かけがえのない「授業」の時間なのです。
【ステップ5】法事は「大切な人が仏さまだと」知るための儀式
この「先生と生徒の物語」からわかるように、浄土真宗の仏事は、私たちが何かをしてあげる一方通行のものではありません。
故人(仏さま)が私たちに語りかける働きと、私たちがその声を聞こうとする心の働き。
この二つが出会う場所、それが法事であり、お参りの場なのです。
ですから、浄土真宗の仏事の本質は、こう言うことができます。
故人を仏に「する」ための儀式ではなく、
故人が「仏で【あった】」という真実を、
この私が、心から知り、受け止めさせていただくための儀式
お仏壇に手を合わせ、お経が響き、皆で故人の思い出を語り合う。
その一つひとつが、「ああ、あの人は、私にとって、かけがえのない仏さまであったんだな」「今も私を導いてくれているんだな」と気づかせていただくための、尊いご縁なのです。
結論:浄土真宗の「供養」とは
最初の問いに戻りましょう。 「浄土真宗では供養しないって本当?」
答えは、こうなります。
- はい、 私たちが何かをして「故人を仏様にしてあげる」という意味での『追善供養』はいたしません。なぜなら、阿弥陀さまが責任をもってすべての人を救い、仏様にしてくださるからです。
- しかし、 私たちは誰よりも深く、故人との関係を大切にします。すでに仏様となった故人を『人生の先輩であり、先生』として尊び、その方とのご縁を通して、阿弥陀さまの教えに出会い、今の私がどう生きているのかを見つめ直していきます。これこそが、浄土真宗が何よりも大切にする、本当の意味での「供養」なのです。
亡くなった方は、どこか遠くへ消えてしまったのではありません。阿弥陀さまの「限りないいのち」の世界に還り、その大きないのちの一部となって、今も変わらず、私たちの傍らにつねにあり、私たちを支え、導いてくださっています。
法事やお参りは、その温かい導きに、改めて気づかせていただくための大切な時間です。どうぞ安心して、故人を偲び、手を合わせていただければと思います。